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本徳寺

家族そろって「播州の本願寺」へお参りしましょう。

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本徳寺は本願寺一門の西の拠点・英賀寺内町を出生の地とし、亀山本坊と山崎廟所から構成され、真宗本寺の形態を今に伝えています。中世から近代に至る歴史的時空間を体感できる数少ない寺院です。蓮如により創設されたこの播州門徒のメッカは檀家寺とは異なり多くの行事を通して地域に開かれた自由参加型の寺院なのです。

詳細情報

本徳寺は『大谷本願寺』第八代蓮如による西国教化の拠点づくりに始まる。蓮如の意向により御堂衆・空善が派遣され、明応2年(1493) 英賀本徳寺の前身である『東かりや道場』に本尊が下付され、以後本願寺の直轄寺として、『本徳寺』を号した。英賀門徒衆の懇願により、永正9年(1512)本願寺より門主の息男・実円師が本徳寺に派遣され、以後、現代に至るまで、本徳寺歴代は門主の親族(連枝)をもって継職されている。英賀本徳寺の建造物は、永正12年(1515)に本格的な本堂が建立され、『英賀御堂』と称し、播州地方に浄土真宗が飛躍的に発展する大きな契機となった。今でもこの地方において真宗門徒が圧倒的に多いのはこのころに遡る。
 中世の転換期にいちはやく、全国的規模の組織を確立した真宗教団ではあるが、信長・秀吉の武力統一により教団の自立的構造は解体された。本徳寺においても豊臣秀吉の中国制覇の中で英賀の陥落と共に存亡の危機に直面したが、幸いにして戦火をまぬがれ『本徳寺』は秀吉の寺領寄進の意を受けて、天正10年(1582)、現在の地、亀山に移築され『亀山本徳寺』と呼ばれるに至った。
 その後、徳川政権の下、本山本願寺が東西に分れるに従って本徳寺も転派・分流の揺乱を経験し、結果、『亀山本徳寺』は西派に属した。36年後には東派本徳寺が船場に別立され、このとき以来、郷土の人々は前者を『亀山御坊』、後者を『船場御坊』と呼称している。近世200年の幕藩体制下、亀山本徳寺は『西国総録所』ならびに数百ヶ寺の本寺として本願寺宗門行政のなかで重要な役割を果した。現在の本徳寺伽藍はこの時期に整えられ、真宗独自の伽藍構成を完成させた。さらに英賀山崎山に本徳寺西山廟所を開き、以来『西のお山』として親しまれている。
幕藩体制の終焉を期に、国体の近代化路線に沿って本願寺教団の改革が行われた。その結果、亀山本徳寺は『別格別院制』の制定によって『播磨別格別院』となり、播州の全門信徒を構成員として組織され、念仏の中心道場としての役割を担った。
  戦後は、『宗教法人法』が制定され、亀山本徳寺は法制度の上からは戦後の包括法人・浄土真宗本願寺派に属する独立法人となり、宗門内では同派の『由緒寺』とされ播州一円の真宗門徒の崇敬を集め現在にいたっている。
約6000坪の境内には30棟の建造物があり、20棟が文化財に指定され、近世真宗本寺の形態を完全に保持しているため、県外からの団体参拝も多く姫路の観光スポットにもなっている。

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