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正善院

日蓮宗 身延山
夫婦池 能勢 妙見宮

大阪市北区にある日蓮宗正善院は、日蓮大聖人御降誕の地、千葉県小湊、大本山 誕生寺 直末寺で、大阪 能勢領主第三十四代能勢頼萬公の紹願により能勢妙見大菩薩を拝戴しお祭りしています。
能勢のお殿様が居られたお寺で、明治以降一般の方々も参詣する事となり、「女夫池(めおといけ)の妙見さん」と親しまれてます。
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森琴石は、銅版画で、夫婦池妙見宮を「大阪名所独案内」(明治15年、1882年刊行)で紹介している。   浪花百景「北妙けん堤」(国員画)
上左手の写真
森琴石
大阪名所独案内
夫婦池 妙見宮

能勢の妙見堂は明治十八(一八八五)年に一般公開とあるから、十五年の森琴石『大坂名所独案内』出版時、大阪の人々には、こちらの妙見さんのほうが身近な存在であった。 大阪市内の妙見信仰の高まりがここから湧き上がってゆく。 
お寺には妙見信仰論なる運動が起こりその資料が残っている。
霊験あらたかなお姿に老若男女が集い、縁日の午(うま)の日には終日参拝客が絶えなかったという。

上右手の写真
浪花百景
「北妙けん堤」
(国員画)
 天満堀川は、南は堂島川、北は扇町公園付近の芥山までつながっていた。
 天保九年(1838)夫婦池を埋めて大川につなげられ、妙見宮にちなんで妙見堤と呼ばれた。
 桜の樹々が植えられ、正善院妙見宮の周辺は景勝地となり、春には多くの花見客が賑わっていた。
 「女夫池の妙見さん」は、その地に能勢氏が屋敷を建て、能勢から妙見菩薩を勧請(かんじょう)して始まり、地名も「女大池町」として皆に親しまれた。
お寺の行事説明
星祭り祈願  人間一生の間には、何をやっても上手くいく年と、その反対に何をやっても上手くいかない年があるように、必ず良い時期と悪い時期があります。
 これを俗に、星廻りが良い、又は悪いという風に言います。
 年令にも一つの周期があり、悪い年が「厄年」です。
 一生涯の内、男性が四十二才、女性が三十三才の時が厄の中でも大厄と言い、最も災難の多い年と言われております。
 それでは、悪い星廻りの年は何をしても絶対に思いどおりにならず、厄年に当たる人には必ず災難があり、それから逃れる方法が無いのでしょうか。
 法華経には、悪い星は追い払い、善い星を呼びよせることによって、七つの災難を七つの福に変える力があると言われており、星祭り祈願がその一つです。
 節分の日、星の神様であられる能勢同体妙見大菩薩に法華経を唱え、皆様の星を供養致します。
 当山は、法華経を命懸けで説かれた日蓮聖人の御降誕の霊場である、誕生寺の直末寺であります。聖人のご祈願によって、御生母の梅菊御前が病を回復され、その後四カ年の寿命を延べられたという「蘇生延寿」の法脈を受け継ぐ霊跡でもあり、その霊験はあらたかであります。
節分  節分の本来の意味は、「季節を分ける」を意味しています。
ー悪霊を払うー、炒った豆で鬼をはらう。
 この撒く豆は、「魔滅」にも通じ邪気を追い払って、その年の無病息災を願うという意味もあります。
 誰しも心の中に、人に苦しみを与える鬼、あれも欲しいこれも欲しいという貪欲の鬼、善悪の判断がつかない愚かな鬼が住んでいるのです。
 春を目前に、降りかかる災いを払うだけでなく、心の鬼退治にも努めたいものです。

お盆  お盆にご先祖の霊を供養することは、「あの世」にいる故人と「この世」に生きる私たちの隔たりがなく、先祖と子孫が久々の出会いを喜び合うこと。
 大切なのは、先祖にまごころをお供えすることだけど、先祖だけでなく、万物の霊も供養して、与えられた生を喜び合おう、という気持ちも大切。
 飲んだり食べたり話をしたりしながら、先祖の前で自分の考え方や生き方に間違いはないかを反省することも忘れないように。
盂蘭盆
人が亡くなると私たちは、合掌して、心を込め故人を仏さまとして見送ります。
お盆は、合掌して仏さまを迎え、さらに自身の生きる意味を教わる大切な節目でもあります。
蓮の花は、多くの人びとが亡き方々に思いを馳せるお盆のころに咲きます。
蓮の花のつぼみは、合掌の姿とも言われ、その中にはすでに実となる部分が隠されています。
 仏教では、天上界にはマンダラ華、人間界には桜の花、仏界は蓮華と申します。
 特に、蓮は汚泥に身を沈めながら染まることなく清浄に咲き誇ります。
 それは、仏をめざす人間の生き方を無言で示しています。
 お釈迦さまが説かれた法華経には、私たちの心の中に、すでに仏となる種が存在していると、説かれております。
 私たちは、日々の生活に追われ、自分自身の心の中を見つめる事をなおざりにしております。
 盆を迎え亡き人に供養して、改めて日々精進し感謝する菩薩の心を大切にしなければなりません。
 蓮の如く、その徳によって清らかで美しい心を取り戻し、保ち続けることを大切にしなければならないと思います。
お彼岸 彼岸花は少し変わった植物で、開花期には葉がなくなります。
葉があるときに花がなく、花があるときに葉がないことから、「葉見ず 花見ず」とも呼ばれます。
葉と花は同時に生きることがなくても、お互いを思いやる。
これはお寺に眠るご先祖さまと、今を生きる私たちの関係に重なるのではないか。
私たちは花なのでしょうか、葉なのでしょうか。いずれにせよ、葉のこころを知る花でありたい、花のこころを知る葉でありたいものです。
水子の供養 人間として生をうければ心配はつきもので、その嘆きは人によって様々です。
 日蓮聖人はその嘆きの最もなるものは親より先に子が死んでしまう悲しみであると示されています。
 我が子の姿を見られるならば、たとえ火に入っても、頭を砕かれても惜しくないのが母の心情で、母親の苦悩から生まれる供養によって子供の成仏は疑いないものであると説かれています。
 死者のなかでも、水子の弔いの機会は、供養者の気持ちに委ねられています。
 親が心から念じればそれで良いとする方も居ますが、慈悲の心を形に表す事が、今後の人生を歩む時に、成仏した子供にかえって導かれると教示されています。 
 私たちはそれぞれの嘆きのなかで御霊を供養しています。
 それは、私たちが生きている証拠でもあり、亡くなった方々が生きていた証明でもあります。
そして、私たちは、亡くなった多くの方々に導かれて生きているのです。
長崎奉行の能勢金之助と勝海舟・坂本龍馬
/13,2.gif 勝海舟

能勢妙見宮
勝海舟の父・勝子吉は、海舟の開運出世を願い東京・墨田区にある能勢家屋敷の妙見宮に日参した。
勝麟太郎(勝海舟の幼少名)も手を引かれ参っていた。
親子の愛情は、子母澤寛の「父子鷹」でも有名で、自らが果たしえなかった青雲の志を子に託す父と、その期待に応えようと不断の努力を続ける子。下町を舞台に父子愛を描いている。
子吉は、大阪の能勢妙見宮にも参り、その事は「夢酔独言」の“能勢の妙見詣で”にも書かれている。
/m1,123.gif 勝海舟

夫婦池 能勢
妙見宮 正善院
勝海舟も大阪城登城、勝塾(大阪海軍塾)と大阪に縁があり、蛤御門の変の直後も桜宮の地に龍馬と共に訪れたと日記に記している。
当寺院の参拝記録は焼失しているが、海舟のお題目による妙見信仰は幼いころから培われていて、長崎への御用のとき、宿泊先の禅寺でも題目を延々と唱えていたと伝わっている。
旗本能勢の本拠天満屋敷 能勢妙見宮 正善院へ、金之助に伴われた勝海舟が龍馬と共に参拝したと言われている。
坂本龍馬

妙見菩薩
 龍馬は、千葉周作が開いた本拠地「玄武館」で「北辰一刀流刀兵法、一巻」を授かり、周作の弟、定吉より免許皆伝を受けた。
 千葉一族(千葉県の名の起源)の守護神は「北辰妙見菩薩」で、日蓮聖人の有力な信者の富木常忍や太田乗明は、千葉家の家臣である。
剣と同時に妙見信仰にも磨きかけていたことは想像し難くない。
妙見菩薩の「妙見」とは「まだ見ぬ未来を見通す」という意味がある。
光り輝く大きな宝珠を授かったであろう。
能勢金之助

勝海舟坂本龍馬
能勢金之助は、元治元年(1864)一橋慶喜から、外国艦隊の下関攻撃を回避せよ、との御用を受けた勝海舟に、坂本龍馬と共に目付として同行した。
日程は、2月14日〜4月11日。金之助と海舟は、米国と蘭国の領事との会見調整を行う
又、長崎海軍伝習所や鉄工所、造船所を視察したり、横井小楠の『海軍問答』を聞いている。
翌、慶応元年(1865)8月10日、金之助は長崎奉行となる。イカルス号事件では、龍馬に配慮する。
長崎への出張記録 鍋島藩の日記(勝海舟と能勢金之助)  文久四年正月より四月迄
 文久四年三月朔日 曇
一 今度下向御目附能勢金之助殿、先月十八日豊前中津江 着岸相成候由ニ付、
 御軍艦奉行並 勝 麟太郎殿 上下 廿一人
 御目附 能勢 金之助殿 同 拾六人
 御徒目附 大木 六郎 村上与七郎 同 三人ツツ
 小人御目附 中山 七太郎 小沢 鍋太郎 同 弐人ツツ
 手覚
御軍艦奉行並 勝麟太郎殿 御目附 能勢金之助殿、肥後より嶋原渡海
去ル廿三日矢上御昼休ニ而御着崎相成候由ニ付、
能勢金之助と天満屋敷 夫婦池 能勢妙見宮 正善院  天保13年(1842)分家である能勢金之助に対し、宗家である旗本能勢頼富は、十四代将軍徳川家茂に仕える為、本拠を天満屋敷 能勢妙見宮 正善院においていた。
 頼富は、分家にあたる、当時大阪目付であった能勢金之助より世情急変の情報を得ていた。
 能勢頼富は、鳥羽伏見の戦いで、朝命を奉じて、御所を守るため警護に当たる。
 頼富公は、明治天皇の御東遷に際してお供として行幸に参加している。
能勢金之助の
幕府役暦
 徳川実紀(幕府の日記)に、能勢金之助は、文久2年(1862)6月当時御使番、火事場見廻り、9月御使番として翌年上洛する将軍家茂のお供をする名簿にはいっている。
 家茂が上洛して江戸へ帰るまで「当座の目付」役の後「大坂目付」へ。
 慶応元年(1865)5月「日光奉行」文久3年(1863)3月から「目付」海舟、龍馬と長崎への御用。慶長元年(1865)11月に大隅守となり「長崎奉行」に就任する。
子授け延命地蔵尊
子授け延命地蔵尊  夫婦池跡に妙見宮が創建された折、能勢頼功公が敷地内に祠をおき、その地にあった地蔵尊をお祀りされました。
 奈良時代の地蔵尊で、手には「如意宝珠」を持たれています。
「如意宝珠」とは、「意のままに様々な願いをかなえる宝」という意味です。
 人々の病気や苦悩を癒し、子無き人には子宝を授け、育ち難きは発育を助け、諸病平癒福徳延命を授けると言われています。
今もなお正善院夫婦池妙見宮の本堂にそのお姿があります。
北辰妙見大菩薩
北辰妙見大菩薩について  古代より星の中で常に北を示し、不動である北極星に人々は神の力を感じていました。
 それが信仰となり、仏教と融合して菩薩の称号が与えられたのが、北辰妙見大菩薩であります。
人々が仏様に与えられた宿題である人生の航路を歩む時に、私達を常に見守り、道を導き開いて下さるのが妙見大菩薩です。
「妙見」とは善悪や真理をよく見通すものと、いうことです。
その知恵を頂ける菩薩様なのです。
文化・芸術について
/m3,66.gif ◎『浪華の賑ひ』
安政二年
(1855)
暁鐘成

 「女夫池旧跡」十丁目すじの北 女夫池町の東にあり
 池け埋みて平地となれり此に能勢侯の邸を建てられ門内の傍に妙見尊を勧請あり
 是は摂州野間村妙見山の本尊同体の霊像にましませば応験ことに新なれば貴賎常に詣して間断なく 別して午の日は御縁日なりとて参詣おびたヾし

◎『芦分船』一無軒道冶著 延宝3年(1675)刊

 女夫池の近くに仲睦まじき夫婦が住んでいたが、貧しい生活の為、夫は三年辛抱してくれ、もし帰れなかったら死んだと思い、誰かと幸せに暮らしてくれと出稼ぎに出た。
 しかし、三年以上経っても戻らず、たまりかねた妻は女夫池に身をなげてしまう、のちに夫が帰り事実を知り翌朝夫婦池に飛び込み、妻の後を追った。
 近松の『津国女夫池』の「女夫名は永き世の女夫池」はこの話を比ている。

/m4,65.gif ◎近松門左衛門の『津国女夫池』

享保六年二月竹本座(1721) 浄瑠璃近松門左衛門
 将軍足利義輝に謀反した三好長慶の事件からその家臣の家族にまつわる因果な話と大阪天満 夫婦池にあった「芦分船」の話を結びつけ展開している。
 しばしの敵も来世の女夫。しばしの兄弟此世の女
夫名は永き世の女夫池。
池の玉藻を亡玉の形見に。茂る芦真薦
語 伝へて言の葉の寄るへの。
水とぞ成にける(第三)

/m5,79.gif ◎雨月物語
『浅茅が宿』
上田秋成
安永5年
〔1776〕刊

大阪天満の人
 下総の真間に仲睦まじき夫婦が住んでいたが、貧しい生活の為、妻に帰る約束をして京に商いに出る。
 少ししてから真間が戦場になり、帰路に着くが思わぬ災難に遭う。
 七年後帰り妻と喜び再会し一夜過ごすが、朝眠りから覚めると妻は居なく廃屋に居ることに気がつく。
 寝て居た場所は妻の塚であった。

◎雨月物語は、芦分船の影響を受けていると考えられる。

 上田秋成は、大阪生まれで三歳より天満堂島で育ち、後の師匠である都賀庭鐘も天満の人で女夫池の「芦分船」の物語は十分認識していたのは確実である。
 芥川龍之介や三島由紀夫など多くの作家が愛した「雨月物語」は、後に溝口健二監督によって映画となり大反響となる。
 最近では、村上春樹との関係が注目されている。
 時代が変わっても夫婦の間の永遠のテーマが示されている。

監修 三重大学名誉教授 酒井 一
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