【御祭神】
当社の御祭神は、大国主命です。
大巳貴命、大物主命、大国玉命などの御別名があり、当社は子の神、子の明神とも呼ばれ親しまれてきました。大国主命は素盞鳴尊の御子であり、『古事記』『日本書紀』『出雲風土記』『播磨風土記』等で、因幡の白兎を助けた話や少彦名命との国づくり、国譲りの物語が有名です。
大国主命の御別名・大巳貴命は、「オオ(大)ナ(土地)ムチ(霊)」という意味で、出雲大社の御祭神としても有名です。大きな土地の守護神、国土の主領神であり、古来、神々の代表とされ、皇室をはじめ広く人々に崇敬されています。慈悲深く、武勇に優れていた大国主命は、天下を治め、殖産興業、畜産の奨励、人々に病気の治癒法を教えるなど、広く国民の幸せのために専念された神様です。また、平安末期以降になると福の神として信仰され崇敬されるようになった神様です。
【御由緒】
当社は、今から約九百五十年程昔、平安時代後期、後冷泉天皇の天喜四年(一〇五六)四月に源義家公が、父頼義公と共に朝廷の命を受け、奥州の安倍氏征伐(前九年の役)に向かう途中、この地を通過する際に子の神(当社)に武運を祈ったと伝えられており、少なくともこれより以前に、この地の守護神としてお祀りされたと考えられております。
その後、文治五年七月(一一八九)源頼朝公が奥州の藤原泰衡征伐のため、自ら大軍を率いて鎌倉を発しこの地に至った時に、義家公が子の神(当社)に参拝したことを回想し、愛馬であった芦毛より下りて、駒(馬)を境内の松に繋いで戦勝祈願をしたと言われており、この故事により、もともとの社名であった「子の神」が「駒繋神社」とも呼ばれるようになり、明治以降に正式に「駒繋神社」と称せられるようになりました。
また、新編武蔵風土記には「子の神の境内は五反(一五〇〇坪)下馬引澤の内小名子の神丸にありその所の鎮守なり、此社の鎮座の年歴を詳らかにせず、本社九尺に二間、拝殿二間に三間社地の末の方にも同じ鳥居一基を建てる」と記されており、当時の駒繋神社の様子を知ることができます。